二つの出来事は、必ずしも関係があるわけではない
ある日、朝のコーヒーを飲んだら、会社のメールで「プロジェクトの進捗が確認でき た」という通知が来た。
その時、コーヒーを飲んだのは、朝の第一歩だった。でも、通知が来たのは、プロジ ェクトの進捗確認のためだった。
コーヒーを飲んだことが、通知を起こしたわけじゃない。でも、その日は、コーヒー を飲んでから、その通知が来た。
この流れは、見かけ上因果関係があるように見える。でも、実際には、ただのタイミ ングの一致にすぎない。
ある人が、毎朝同じコーヒーを飲む。その日は、いつも会議の後、誰かが「進捗報告 」をした。
でも、その報告は、会議の内容に依存している。コーヒーは、会議の前に行っている だけ。
だから、コーヒーが進捗を引き起こしたわけではない。
このように、二つの出来事があるだけでは、因果関係を断定できない。
ただの並びだけに過ぎない。それが、多くの人の誤解を生む。
いいことが起きた日は、必ずしもその行動が原因ではない
ある人が、毎週水曜日に散歩をする。その日は、たいてい、仕事の話がうまく進む。
でも、散歩が進捗を進めるのではなく、散歩をした後に、話がうまく進むだけ。
散歩が原因で、話が進むというわけではない。
たとえば、水曜日に誰かが仕事の話に集中していたかもしれない。
それなら、散歩がなくても話は進む。
だから、良い結果が起きた日が、散歩をした日であるというだけの話。
それが、散歩が原因だと言えるか?
答えは、まだ見えていない。
このように、良いことが起きた日は、必ずしもその行動が原因ではない。
ただのタイミングの一致。それが、多くの人の誤解を生む。
なぜ人は、偶然と因果を混同するのか
人は、ある出来事に「意味」を感じる。
たとえば、友人が突然電話をくれたとき、「あ、これで運命が変わった」と感じる。
でも、その電話は、友人がその日に話した内容の結果かもしれない。
あるいは、別の理由で、その日が電話をしただけ。
意味を感じる心は、とても大切。
でも、それをもって、原因と結果を決めてしまうのは、危険だ。
心が動くからといって、それが原因だとは限らない。
たとえば、雨の日、傘をさすと、誰かが笑った。
その日は、雨が降っていた。でも、笑いは、別の出来事から来ていたかもしれない。
意味を感じるだけでは、原因は決まらない。
試すこと:同じ条件で何度起きたかを記録する
毎週水曜日に散歩をする。その日が、仕事の進捗が進む日だった。
それを10回、記録してみよう。
でも、その中で、1回は、散歩をしたのに進捗が進まなかった。
もう1回は、散歩をしなかったのに進捗が進んだ。
このように、起きなかった日も含めて、記録する。
それが、偶然と因果の違いを知る第一歩。
記録を続けた結果、散歩をした日でも、進捗が進む日が6割だった。
でも、散歩をしなかった日でも、進捗が進んだ日が4割あった。
だから、散歩が進捗を進めるという因果関係は、まだ証明されていない。
ほかに考えられる説明を三つ挙げてみよう
散歩が進捗を進めるという説明は、一つだけじゃない。
まず、水曜日に誰かが仕事に集中していたかもしれない。
それなら、散歩がなくても話が進む。
次に、会社の会議が水曜日に開かれていたかもしれない。
その会議で、進捗が確認された。
最後に、その日は、誰かが新しいアイデアを出したかもしれない。
それなら、散歩が原因じゃない。
このように、別の説明を3つ挙げられる。
どれも、散歩が原因とは言えない。
だから、一つに決めつけずに、すべてを考慮する必要がある。
楽しむ縁起と、事実を求める判断を使い分けよう
ある人が、毎日朝にコーヒーを飲む。
その日は、いつも誰かが笑った。
その人は、「コーヒーを飲むと笑われる」と思ってしまう。
でも、それは「縁起」という感覚にすぎない。
縁起は、楽しい。でも、それが事実を意味するわけではない。
たとえば、コーヒーを飲んで、誰かが笑った。
でも、その笑いは、別の出来事から来ていたかもしれない。
だから、楽しむのは自由。
でも、判断するときは、事実を確かめる必要がある。
それが、心の感覚と、現実の判断を分ける。
感覚は大切だけど、判断は、証拠をもとにすべき。
それが、失敗しやすい場面を、責めずに、次にどうするかを決める。



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