記憶は録画じゃない
記憶って、録画機械じゃない。映像が一瞬で終わっても、そのあとに「今」が重なっ ていく。
たとえば、友人が「あの日、あなたはコーヒーを飲んでいた」と言う。その記憶は、 その日、その場所、その声をそのまま持ってるわけじゃない。記憶は、今、どんな気 持ちかを足して作られる。
だから、私が「あの日、風が強い」と思うのは、風が強かったからじゃない。風が強 かったら、私は「涼しい」と感じた。でも、その「涼しさ」は、私の今の気分に混ざ ってる。
同じ風が、別の日に見たら、もう「暑い」と感じることもある。記憶は、そのときの 感情を乗せている。
だから、記憶は「事実」じゃない。それは、今の私に合った「物語」だ。
書き起こした記憶と現実のズレ
写真を見たあと、私はその場面を「正確に」思い出した。でも、写真に写ったのは、 たった一つの瞬間。
たとえば、去年の夏のキャンプ。写真に、夕焼けが映ってた。でも、その日は、風が 強い。でも、記憶では「静かで、空が青かった」と感じる。写真の色は、ぼんやりし ていて、でも、私の記憶は「明るくて、きれいだった」と思ってる。
これは、記憶が「今の気持ち」を反映してるから。
写真は「客観」。でも、記憶は「主観」。写真に写った風が、私の記憶では「涼しい 」と感じられるのは、そのときの私に合った感覚だから。
だから、写真を見たあとに、記憶が「鮮明になる」のは、見ている人の今の気持ちに 影響される。
記憶を客観的に使う危うさ
「私はその日、彼に会った」と言っても、それは「強く覚えている」からだ。でも、 それが「事実」かどうかは、分からない。
たとえば、会った日が記録にないなら、その記憶は「信頼できる」かどうか、誰にも 確認できない。
ある友人が「あの日、一緒に飲んだ」と言う。でも、その日の会話のメモは、その日 は「お茶を飲んだ」とだけ書いてある。記憶が「会った」と言うなら、それは「今」 の私の気持ちに合った話だ。
だから、強く覚えている=客観的証拠とは、違う。
自分で確かめる方法
私は、覚えている場面と、記録に書いた内容を、別々に書く。
たとえば、ある日、友人と話した。その日は、連絡先に「18時、カフェで話した」と 書いてある。でも、記憶では「20時、公園で話した」と感じる。
だから、メモを見て、違っていた部分を直す。
日付のあるメモ、メール、連絡のやり取りを、全部見直す。それだけでも、記憶の「 ずれ」が見える。
これで、私の記憶は、より「現実に近い」ものになる。
記憶の意味は大事に
記憶って、単に「事実」じゃない。それは、人間が「生きている証」だ。
たとえば、子どもの頃の笑い声。それは、今でも心に残ってる。でも、その笑い声が 「本当にあった」かどうかは、確認できない。
でも、それが「私にとっての意味」なら、それも大事だ。
だから、記憶を「正しい」と言うより、「どう感じたか」を書くのが大事。
次回の工夫としての行動
今、私は、記憶を書く前に、まず「何を書くか」を決める。
たとえば、「その日、何を話したか」ではなく、「その日、どう感じたか」を書く。
それだけでも、記憶が「主観」であることを知る。
そして、そのあとに、日付のある記録を見て、違っていたら、直す。
そうやって、私の記憶は、より安全に、より現実に近づいていく。
ふと気づいたこと
ある日、お父さんと話した。その時、私は「お父さんはいつも笑った」と思いついた 。でも、その日は、実際はお父さんが話しかけてくれたのは、ちょっとしたお茶の話 だけだった。
その記憶が「強かった」のは、今、親しい気持ちが湧き上がったから。お父さんの声 が、昔の温かい場面を連想させた。でも、その「温かさ」は、その日の話の内容とは 違う。
だから、記憶が「正しい」と思えるのは、今の心の状態が、そのときの出来事と重な っているから。
ふと気づいたことの裏側
友人が「あの日、一緒に帰った」と言う。でも、その日のメールには「18時、別れま した」とだけ書かれていた。
でも、記憶では「夜中、道に並んで話した」と感じる。それは、今、孤独を感じてい るから。
記憶が「事実」と見えるのは、そのときの私に合った感情が、物語に組み込まれたか ら。
だから、同じ出来事でも、誰が見れば、どう感じれば、記憶は変わってしまう。



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